「長生きは素晴らしい」「短命は不幸だ」
私たちは無意識のうちに、命をその“長さ”で評価してしまいがちです。
けれど本当にそうでしょうか。
100歳まで生きても「もっと生きたかった」と悔やみながら最期を迎える人もいれば、短い命でも「完全燃焼できた」と満足して去っていく人もいます。
現代医療は延命を可能にしましたが、果たしてそれは本当の満足につながるのでしょうか。
本記事では、命の価値を「長短」から解き放ち、より本質的な視点で捉える方法を考えてみます。
命を長さで測るという誤解
多くの人は、長寿を「幸せな人生」の証と見なします。
新聞やニュースで「◯◯さんは100歳で大往生」と報じられると、誰もが「長命で大満足の人生だった」と思うものです。
一方で、若くして亡くなった人には「さぞ無念だったろう」と哀惜を込めて語られます。
つまり私たちは命を「長いか短いか」という尺度で評価しているのです。
しかし、これは必ずしも真実ではありません。
100歳で亡くなった人の中にも「まだやりたいことがあったのに」と苦しみながら最期を迎える人がいますし、短命であっても「悔いはない」と人生を全うする人もいます。
延命の先に本当の満足はあるのか
現代医療の発展により、人は寿命をある程度「延ばす」ことが可能になりました。
人工透析、心臓手術、薬による延命治療…。
こうした医療行為によって、命は確かに長くなります。
しかし「延ばした命」がそのまま「満足できる人生」につながるわけではありません。
人間の欲は尽きないものであり、「もっと、もっと」と思う限り、永遠に満たされないのです。
命の価値を決める“ものさし”の危うさ
私たちが使っている「命のものさし」は、実はエゴに基づいた相対的な基準です。
- 長ければ良い
- 短ければ不幸
- 延命できれば幸せ
こうした思い込みに縛られている限り、人生の満足は得られません。
しかし、この“ものさし”そのものが幻想にすぎないと気づいたとき、考え方は大きく変わります。
「長くてもよし、短くてもよし」「延命ができてもよし、できなくてもよし」と、与えられた命をそのまま受け止めることができるのです。
他者に押しつけてはいけない
ここで大切なのは、この考え方が「主体的立場」の問題だということです。
自分が「短命でもよし」と思うのは自由ですが、それを他者に押し付けてはいけません。
誰かの命を「短くても仕方ない」と第三者が決めつけることは許されないのです。
あくまで「自らの生き方」を見つめ直す姿勢として、この視点を持つことが重要です。
「長くてもよし、短くてもよし」と生きる
人生の価値は、年齢の長さや医療の技術に依存するものではありません。
それよりも、自分に与えられた命をどう生きるかが問われているのです。
- 短い人生でも、充実感を持って終えることはできる
- 長い人生でも、不満を抱えて終わることはある
- 延命治療を受けても受けなくても、最後に「納得できた」と思えるかどうか
その気づきこそが、私たちに本当の意味での「安心」を与えてくれるのではないでしょうか。
まとめ いのちを生きる

命は長さで価値が決まるものではありません。
延命や寿命の長短を超えて、「今」をどう生きるか。
「長くてもよし、短くてもよし」と受け止められたとき、人は本当に満足して人生を終えることができるのではないでしょうか。



